昭和47年09月20日 朝の御理解
御理解 第54節
「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」
心配のない世界に住む事。心配のない世界に住んでおる人。それを私は御徳を受けた人の姿だと思うですね。金があったり物があったり健康であったり、言うならば人間の幸せの条件といったようなものを足ろうて持っておりましても、持っておる為に不安であったり、心配であったりしたのでは、徳を受けておるという事は言えません。ですから私共が、自分の心の動きというものに感じる、その度合いがね。
おかげを頂いて段々信心をさせて頂くおかげで、徳を受けていっておるなと、力を受けていっておるなという風に、自分で感じさせて頂ける事だと思うですね。そこで私共が、不安であったり、心配であったりするとするならです。まだまだ信心の徳を受けてないと思わなければなりません。ですからどうでも神徳を受けさせてもらう。心配のない心配せんですむだけのところ迄、信心の徳を受けて御徳を受けるという事は、それから先は限りがない事ですからね。
けれども折角信心させて頂くのですから、いろんな問題がありますと、それが腹が立ったり心配になったり、不安になったりする様子を見ますと、日頃何の為に信心しよるのかという風に申します。日頃の信心は、何にも役に立ってないじゃないか。この位の事で心配したり、うろたえたりする様な事ではと、いう風に言われるようにね、自分達の心の状態を覗かせて貰うと、自分の信心の程度が分かる訳です。
今朝方、私、お夢を頂いておったが、誰かが、釣りをやってるですね。魚を釣ってる。それが、立ちながら釣ってる。そして、場所をあっち替え、こっち替えしよる。けれどもどこへ行っても、パッと投げ込めば魚が釣れとる。よう釣れよる。たんびたんびに釣れよるとじゃん。そして又、今度は場所を替えよる。そしたらそこでも又釣れよる。というような、私はお夢を頂いてからですね。こげん魚が釣るるごたるなら、いっちょん面白うなかろうと私が思いよるとこじゃった。
どうでしょうか皆さん。魚を釣ると言やそれこそ場所を替えたらいけないとさえ言われる。ちゃんとそこへ座り込んで、屈み込んでそしてじっと釣り糸を垂れて、浮かしを見詰めながらじっと釣れるのを待つのです。あんまり釣れんなら時々あげて見て、餌を替えたりそして又じっと、それを魚が引いたり食ったりするのを待つ訳です。それでこそ釣りが面白いのじゃなかろうかと思うですね。
立ちながらつうっとこう投げ込んだ度んびに釣れよる。しかも場所もあっち行ったりこっち行ったり、どこへ行ってもどんどん釣れよる。だったらね魚取りに行くというのならそれはいいでしょうね。魚取りに行くというのならば、魚がそんなに釣れたがいいでしょうけれども、本当に釣りの醍醐味とでも申しますか、所謂釣三昧という事を申しますね。もう一つの三昧境なんです。そして魚を大きいのでも釣り上げるそれが又楽しい。食べるという事よりも魚を取るという事よりも、釣りそのものが楽しいのである。
そこに三昧境があるのである。そういうお夢であった。それから今朝御心眼に頂いたのは、大きな真四角なカステラです、木の箱に入ってる。そのカステラをね、端から手でちぎりながら、頂いておるという様な御心眼じゃった。カステラというのはあれは大体手でちぎったが一番美味しいと言われておりますですね。包丁を当てない訳です。蒲鉾でもそうですね、手でちぎって食べたが一番、通の食べ方です、いわゆる箱の端からちぎって食べる。その事から私は思うたんです。
まぁカステラというのは、それこそカステラ饅頭でふわふわち言うように、もう柔らかいものだとされておる。カステラがしぱしぱするごたったら、カステラの値打ちはない。柔らかであるという事。しかもカステラは、私がご心眼に頂いた、四角い箱に入っている。いわゆる、角いという事。言うなら角いと丸いと言うか、角いと柔らかいと言うか。所謂、柔う堅う行けとよく申します、私がね。そげん堅い事ばっかり言うたって、と言うて、柔い事ばっかりでもいけない。
柔らか過ぎるとだらしがなくなる。余りきちょうめんとか、余りに堅い事ばっかり言いよると、角が立つ。そして今日の、この五十四節を頂いてからです、思うんですけれども。ははぁ神徳を受ければ心配はないと仰せられる、心配がないほどしの人生。まぁそれは、どういう事になるかと言うと、喜びの生活、喜びの生涯。そういう信心が、目当てでなからなければならない。
それにはです、やはり今朝から私がお夢に頂いておるように、落ち着かなければならん。そこにです釣りの味わいというものを、味合わなければならない。おかげさえ頂きゃどこでんよか。御利益さえ頂きゃ何様でもよか。というのが、私の今朝の夢の中に見た、魚釣りの姿ではなかろうかと。立ちながら釣りよる。しかも、どこへ行ったっちゃ釣れる。もしです、信心のおかげと言うのが、そのような風に頂けるとするなら、もう信心の値打ちはないですよね。
良かろうようであって、一つも良くないです。有難さもなければ楽しみもないです。投げ込みゃ魚が釣れる。どこ行ったっちゃ釣れるち言うなら。お参りしてもお参りしても、拝んでも拝んでも、改まった上にも改まったと思うておるのにもかかわらず、おかげは受けられない。そうしていくうちに、信心の味わいが分かってくる。神様はね、結局、信心の味わいを分からせたいのが、神の一念と言うのは、その事だと思う。おかげをやる事が神の願いではなくてです。信心の味わい、信心の道を分かる。
信心の味わいを分からせてもらうという事が、神様の願いであって。右と願えば左、左と願えば右。だから、これはいくら参ったっちゃ拝んでも、こげんおかげ頂かんごたるなら止めようと言や、それ迄の事。願えば願い通りのおかげを受けるという時には、いよいよ、用心しなければならない時だと思う。願っても願っても、お参りしてもお参りしても、所謂、こちらの願っておるおかげというものは、一つも成就しない。そういう時には、神様の願いが成就しておる時だと教えられます。
ですからおかげをやる事が、神様の願いじゃない事が分かるですね。私共が一心に、本当な信心になってくる。なってくればくる程です。願いというものは右と願えば左、左と願えば右という事になるけれども。もうその頃にはその事が有難い、その事が尊いものとして感じらるようになってくる。今こそ神の願いが成就しておる時だと分からせてもらう。だから、神様の願いが成就しておるという事はです。信心をさせて頂いて私共の願いが右が左、左が右と言う様な時代こそが、一番尊い時であるという事。
そうしていくうちに信心の味わい。例えば釣れなくてもじっとこう釣り糸を垂れておる。その事が楽しいのだという。と言うて全然釣れんなら、こげなつまらん事はない。時々は釣れないかん。神様はどんなに願い事を右に願っても左、左に願っても右になるち言うなら、もういっちょんおかげ下さってないかと言うと決してそうではない。どんなに考えても、不思議でたまらん程しのおかげだけは、ぴしっと下さってあるのです。例えばそんなら、善導寺の原さんなら原さんをを例に取ってもいいですよね。
洋服屋さん二十数年前に、息子さんがもう医者も見放した。もう明日は葬式になるかも知れんというので、親戚中の者が集まって、いわゆる遠方の人達なんかは、葬式の着物を持って来るという程しに酷かった。そこを神様一心神様一本でおかげ頂く事に腹を決められたら、もうそれこそ不思議におかげを頂いて、今日の原昌一郎さんがある訳です。それが信心の始まり。所謂信心が本当なものになっていく事の為に、初めの間の神様のお鍛えと言うかね。昌一郎さんが高校へ行かれる時にお願いに見えた。
おかげで高校に通った。それから随分してから病気になられて、学校も止めなければならんようになった。そん時私は今でもお取次させて頂いた事を覚えていますがね、二十数年前の事を。こうして子供が具合が悪い。大変難しい病気だと言うて、お願いに見えた時に、私は、原さんに申しました。例えばね雨が降る日に傘一本借りても、暗い所に提灯一つ借りさして頂いても、傘を返しに行く時には、又はその提灯を返しに行く時には、それこそ野菜の一本なっとん持って、おかげで暗い思いをせんですみました。
おかげで濡れんですみましたと言うて、お礼に出てくるぞと。それに息子が高校に入学のおかげを頂いた事は、そのままにしておいてから、また次のお願いに来て、そういう事でおかげ頂けるかというような、厳しい御理解でした。いわゆる二度目のお参りの時がそげんでした。そらもう当時の椛目ちゃ、参りゃおごられるもんのごと、思うておられたような感じです。まぁそれから今日迄、段々おかげを頂いて来られた。信心始めるようになったら、洋服屋さんが段々寂しくなってきた。
注文がなかごとなってきた。他の同業者の方達がどうした風かと言われる位であった。ところが不思議な事が体験される様になってきたというのはです。そんならお金が必要な時には必要なだけ、ちゃんとお繰り合わせを頂いておると言う事である。さぁ明日はお初穂もなかがと言いよると、それこそこげん所には入ってる筈はない様な所にです。言うなら引き出しの隅の方から、ちゃんとお初穂だけは出てくるという位なおかげが、お初穂だけじゃないもう全てがそうであった。所謂立ち行くのである。
本当にさぁ願っておる事は、洋服屋さんですから、洋服屋が繁盛するように願っておるけれども、繁盛する事はない。ところが不思議な事には、以前繁盛しておったと思うておる時には、いわゆる盆節季に、いつも借金は残っておった。ところが信心させて頂くようになって、仕事は、大した事ないけれどもです。おかげで借金はなくなった。また借金を負う事もなくなった。そして必要な時は必要に応じて、願いはかなわんけれども、そのような信心体験というものが、段々ついてきた。
此の頃からお店があの様に奇麗になった。先生お金はありません。所が二の足踏んでありましたけれども始めなさいと。さぁ始めさせて頂いたら万事の上に好都合のおかげ頂いて、もう本当におかげで全部支払いも済んでしもうて、此の頃からお礼のお祭りがあった様な訳で御座いますけれども。自分の願いというものは右と願えば左の様な感じだけれどもです。是はおかげと言わなければ、思わなければおられない、そういう中に三人の娘もそれぞれに、それこそ勿体ない様な所に縁につけさせて頂いた。
息子も嫁を貰う事が出来た。孫も二人も出来た。家庭中が勢を揃えて信心する事も出来るようになった。と言うて銀行に預金がある訳ではないけれども、必要な時は必要なだけしかも纏まった金が要る時には纏まったものが、ちゃんとお繰り合わせを頂いておるという不思議が、原さん一家の上に表れてきた。だからまぁだ神の願いが成就しとるのじゃないです。願いというのはいっちょん成就しとらん。ただ日々の立ち行きという事に於ては、おかげを頂いておるけれどもです。
右と願えば左、左と願えば右というような状態。けれどもそこに御神意を悟らせてもらい。そこに信心の味わいが出来てきた。二十数年前に私共夫婦の者がです。昌一郎が助けてさえ頂きゃ、一生御恩な忘れません。御恩な忘れんだけではありません。お日参りを欠がすような事は致しませんというのが、夫婦の神様への誓いであった。あげなこつば誓うたけんで、毎日参らんならんという風じゃないでしょう。今原さん達が一家中で毎朝参ってみえる。それが有難いものとなってきた。本当なものになってきた。
だから是からです受けられるおかげが楽しみという事。是はもう願わんでも成就してくるおかげです。とてもとても今の状態で原洋服店の改造なんて言う事は、夢にも思わなかったけれども周囲からどうでんこうでんやりなさい。どうでんこうでんしなさい私が設計はしてやるけんで、私が金は出してあげますけんでという人達が出来てきた。まぁ実に今日私が言おうとしておる事にピッタリ。
そんなら是は原さん一家じゃありません。合楽で二十年も信心を続けておる程しの人なら、皆、そのところのおかげを頂いておるです。だから信心が止められんち、もう止められない程しに、有難いものになってきておるという事。だから神様の願いというのは、そこなんです。おかげを頂くのは、有難いのではなくてです。信心が分からせて頂くのが有難いこと。ですから、この神様に、一家をあげて一心の信心さえしておればという安心というものが、段々生まれてきた。心配がなくなってきた。
取り越し苦労をせんですむようになってきた。それがスキッと迄はいかんにしてもです。これが神徳が、いよいよ本当なものになってくるに従って、その心配はないというところへ出られるだろう。そういう時には、いよいよおかげがいわゆる今度は、おかげの方が、本格的なおかげになってくる。その時にはですね、もう夢にも思わなかったようなおかげ。願うても願うてもおかげにならん時には、神の願いが成就しておる時。お願いすりゃおかげを頂くという時には、用心が必要な時。
願う氏子におかげを授けと言う、そういうまだ初歩的な時。右と願えば左、左と願えば右というような時には、神の願いが成就しておる時。その向こうにです。夢にも思わなかったようなおかげというおかげが、本当なおかげという事になるのです。だから、原さん所の信心は、これからが楽しみという事になってくるですね。そんなら原さんだけではない。皆さんも同じ事。これからが楽しみ。
それは心配の度合いとか、取り越し苦労をせんですむとか、普通なら腹立てにゃならんところを、返ってお礼が申し上げれれる程しの状態。言うなら信心の三昧境とでも申しましょうかね、信心の味わいが、いよいよ分かってきたという事です。しかも一家をあげてという事になってくる時にです。神様がおかげをなんぼ渡しなさっても、もう心配があんなさらん、神様自身に。この氏子にはいくらおかげをやっても、もうおかげを落とすような事はない。慢心を出すような事はない。
どれだけお金を持たしても無駄な使いどもする様な事はない事を、見極められた時に限りないおかげ。それこそ夢にも思わなかった様なおかげが約束されるのです。信心させて頂いて願や願い通りにおかげ、釣り糸を投げ込みさえすりゃもう魚は引っ掛かってきとる。もうどこででもそれが釣れると言うのであったら、信心はそういうものではないと言う事。信心しておってもです。
それこそ目の前が真っ暗になる様な事もあるという事。雨も降れば風も吹くけれども、その雨が降っても風が吹いても折れんですみ、濡れんですむ程しの心の状態を鍛えていくという事が信心なんだ。昨日、銚子市におられます。銚子教会の大久保伊伸という先生が、手紙を寄越しておられる。兎に角、おかげの泉だけでおかげを受けておるという教会。ところが先月送らなかったから、どんなになっとるだろうかと言うて、最後の所に請求されておられるけれども。
本当に日々おかげを受けておると言う事を、こんなにびっしり、この厚い手紙で寄こしてきておられる。その初めの所にこう言う様な事が書いてある。「去る六月末、ご参拝お引き寄せを頂き、御用多端の中に御教えを頂き、誠に有難うございました。お身内の方を亡くされましたのに、先生のお態度の在り方等を目の前に見て、色々と教えられました。事実を見る事は、千万金の教えにも勝るものでありまして、どうしても思う事と実際が違ってきてしまうのが、私達の凡情であります」と。
実際に、おかげを頂いておる人の姿と言うものを目の当たりに見るという事は、千万金の教えを頂くよりも素晴らしい事だと。丁度その日は泰子の告別式で私は出かけようとしておる所でした。少し早めにと思うておった所が先生が見えましたから私が、時間ぎりぎり迄ここにおってお取次をさせて頂いた。例えばその時の私の態度というものがです。丁度飯塚の古賀さんが来ておりましたから、古賀さんが大体は姪御さんですけれども。実際は自分の子供同様に育てられた方という風に話されたんでしょうね。
そんなら自分のそうした身内の者の告別式に臨まれる、先生の態度というものがです。もう千万金の教えを頂くよりも、勝る程しのおかげを頂いたとあります。これは何を物語るかという事です。神徳を受ければ心配はないという事。だからあの当時の事を、皆さんが思うて下さると分かります。私が泰子の死に対してどういう心の状態。これは言わんでも感じますからね、側におれば。また私がした事言うた事、見たり聞いたりなさっておられるのですから、そこに信心ちゃ尊いもんだなぁという事。
それがここにも書いてある様に、頭では解っておるけれども、出来んのが凡情だと又凡人だと。だから出来んのが凡人だと言うてしまえばそれ迄の事。私だって同じ事初めからそうじゃなかった。段々おかげを頂いていく内にです。神様の働きを感じ取らせて頂く所から、どの様な場合であってもですよ、今日迄まぁだ是からどんな事が起こって来るか分からんで、どんなにうろたえ慌てる事が起こってくるとも限らんけれども。
そういう時には、私の信心は、まだこの程度だと思うて、愈々信心を本当なものにしていく精進をする事でしょう。その為にはどうでも私がお夢に頂いた、自分の願いが成就するという事がおかげではなくて、先ずは神様の願いが成就する事の方が先だというような事が分からせて頂くとです。例えば叩かれて痛かっても、困った事が起こってきてもです。今こそ神様の願いが成就しておる時としてお礼が申し上げられる。その先にです、氏子の願いが成就する。
その願いというものは、もう夢にも思わん程しのおかげになってくるのです。と言うて、右と願えば左、左と願えば右と言う様な時、本当にそうかと言うと、決してそうではないという事を、原さんの例で申しましたですね。もう本当に素晴らしい立ち行き、もう神様のおかげと思わなければおられない。願っておる事は成就しないけれども、願い以上のこういう事に迄、神様のお働きがあっておるという事を、感じる所から愈々信心の有難さ、信心の三昧境と言う様なものが生まれてくる。
そういう有難いとか楽しいとかという、信心修行でなからなければ永く続くはずがありません、それこそ人間ですから。叩くばっかりじゃない。叩かれたかと思うと後はもう撫で擦りされておるかのような思いをする様な、おかげを頂くから辛抱が出来る。いやその事が又有難い事になってくる。それにはそれこそ真四角な几帳面な信心、例えば原さん達が、何十年間神様へ誓われた事を、もうそれこそ丁度ここから一里離れておる。しかも奥さんの方はどういう事かと言うと、毎日夜の御祈念に又参って来なさる。
だから往復四里を、毎日通うておられるという事になるじゃないですか。しかも何十年続いておるというところにです。丁度、この几帳面なね、真四角な信心をしておられる。そこに、カステラを、ちぎって食べる程しの、美味しさと言うか、味わいというものをです。成程、包丁入れるよりも、手でちぎって食べたが美味しいという味わいも味合わせて頂きながらです。そういう通の食べ方とでも申しましょうか。
信心が段々、素人から玄人になっていく、味わいというものを味わいながら、神様の願いの成就を願わしてもらい。有難いと思わしてもらい。その先に、氏子の願いが成就するというおかげを受けさせて頂く為に、いよいよ心配はないという信心を、身に付けて行かねばいけんのです。という事は、どういう事かと言うと、御徳を受けていく信心に精進しなければならないという事。おかげを頂く信心に精進するのじゃない。信心を分からせて頂く。信心の力を、徳を受けていくという、楽しさという事を。
私は信心の今日は三昧境という風に聞いて頂いた。釣り三昧というのがです。釣れなくてもじっと辛抱しておる。それが釣りをする人の、言うなら楽しみであるように。信心させて頂く者は、そういう信心三昧の境地が開けてくる。そこから心配のない世界が開けてくる。信心をすれば、誰でもが御神徳を受ける事が出来るとおっしゃる。信心とは、今日私が申しましたような信心をさせて頂くから、それなら誰でも御徳が受けられるという事なのです。
どうぞ。